昭和48年12月15日 前夜祭   (報徳祭)
                              中村良一


いよいよ、明日に、報徳祭を控えさせて頂き、今度の報徳祭は、二代金光様、四神金光様の八十年という式年の年があるわけです。同時に、三代金光様、金光攝胤の君様の十年の式年です。それが併せて、ここのお広前で、おかげを頂くわけでございますが、四神金光様と申し上げます方は、皆さんもご承知のように、僅か十年間のあいだではありましたけれども、それこそ、身を削り、心を削りなさって、大変なご修行を下さった金光様で、十年のあいだに、北は北海道、南は、九州という様に、道が広がって参りましたのも、四神様の御神徳だとも言われておる。特に、九州の信心者、信奉者にとりましては、九州の守りの神様とまで、称えもうしあげておるほどしのお方であります。小倉の桂松平先生を九州の地にお差し向けになられて、ね。九州には、死にげ行くのぞと。九州の生神になるのぞと、お励ましになって、いわゆる、四神様の、あの不退転なご信心をお育てになった金光様であります。もう、文字通り、九州の守りの神であり、九州の、いわば、私共の、大恩人の金光様でございます。
先日から、御本部で、その報徳のお祭りがございました。金光様が、長々と、お祝詞を奏上されましたが、こと、四神様のことに触れられ、こと、お父君であるところの、三代金光様のことに触れられますと、絶句されました。もう、嗚咽をしながら、お祝詞を奏上されました。私は、金光様の、現金光様のお祝詞を、あのように緊張して頂いた事は、初めてでございました。それは、勿論、そういう記念の御年柄に当たるから、特別の、お二方のご信心が、ね。あのように、おかげを頂かせてくださったと思うのでございますけれど。信ずるという事の強いお方であった。御年、僅か、四十歳。ご神宗、十年間という短いあいだ、お亡くなりになる時に、まだ、年端も行かれない、十三歳の御子であるところの、金光攝胤様に、ね。自分の跡を継ぐことを、いわば、ご兄弟の方達に、お願いになられて、もう、攝胤も十三になりますから、ね。お広前の御用が務まると思います。どうぞ、よろしくお願いしますと言うて、ただただ、残念なのは、ね。私が、四十の若さでお国替えを致しますのは、いかにも残念だ。世の中では、途中死にと申しましょうけれども、実は、私は、五歳の時に、ない命を助けられ、親金光様の御神徳のおかげで、今日まで、長生きのおかげを頂き、御用が出来たのだから、言うことはないけれども、信心のない者、浅い者は、ね。それを、色々に、まぁ、批判、非難する様な事もあろう事が残念だと仰ったという事です。ね。
攝胤を見ておって下さい、ね。必ず、いわゆる、おかげである印を、攝胤の上にあらわしますと言う意味のご遺言をなさったという事です。本当に、四神様が仰るとおり、ね。十三のお年から、八十四歳、ちょうど、七十年間という、とにかく、人間のわざとは思われないほどしのご信心をお残し下さるほどしのゴヒレイになった。いよいよ、金光教が、世界の名教として、みんなに認められるほどしの信心が、三代金光様の時代に、確固たる、いうならば、基礎、土台が出来たという感じ。四神様の仰られるとおりの事が、四神様が信じておられること、その事が、そのまま、今日の金光教なのでございます。
私は、思うんです。今朝からも、御理解に頂きますように、疑いを去りて信心してみよ、霊験、みかげはわが心にありという御神訓に基づいて、御教えを頂いた。和賀心と言うのは、自分の心と言うあの、和らぎ喜ぶ心という事ではない。和らぎ喜ぶ心とか、磨くとか改まるという事は、例えば、まだ、出きんに致しましても、信ずるという事。いわゆる、疑いを去りとという事は、信じてということ。信じて信心をしてみよ、霊験は、自分の、わが心にあるんだぞと教えてくださる御教えに基づいて、今朝から、頂いたんですけれども、ね。いわゆる、神様は、信ずる者を、信ずると仰せられるおかげが展開してくるのでございます。
昨日、北野の中村さんの所のお父さんの十五年の、御霊の式年祭が、お婆ちゃん、そして子供達、それから、孫の康代さんまで、参拝のおかげを頂いてから、真心のこもった式年祭がございました。式年祭を終わらせて頂いて、私が、控えておるところに、みんなで挨拶に見えてから、中村さんが話されるのです。先生もう、本当に、あの時分の信心ちゃ、まぁ、ある意味で、大したもんでしたと。もう、今日か、明日か分からんといった様な状態のなかに、親先生に、今度の御本部参拝は、あの、十三日会を中心にしてお参りしておった訳ですね、あの時分。月参りをしておった。それで、お伺いをさせて頂いたら、神様に、ね。親先生が、お出でられるとこには、どこにでも行く、御本部参拝は、勿論の事という、あんた、お届けをしとりなさったから、ね。お父さんの事は、神様にお願いをして、参拝をなさったら良かろうと言われたので、もう、それこそ、心を鬼にして参拝をさせていただきました。もう、帰ってまいります時には、表まで来た時に、よもや、あの、表の戸に忌中が貼ってだんなかじゃろうかと思うて、ひやひやして、実は、帰りましたら、恵美子と初美が、何か、きゃっきゃ笑いながら、裏のほうで、そういう声がした時に、はぁ、まぁだ、おかげいただいとったと思うて安堵致しました。あの時分の信心な大したこつでしたと言うて、自分で言うております。ね。もう、自分の連れ合いが、もう、今日、明日も分からんという様な状態のものを、放って御本部参拝をした。ところが、その間のあいだは、もう、大変、機嫌良うして、病人がおかげを頂いておった。お土産に買うて帰ったせんぺいでも頂いて、ね。おかげを蒙るほどしにあった。そん時に、先生、あのお話しがあるとですたいち言うてから、昨日も、思い出したようにして、いわゆるその、感慨ふかげにお話になりました。うちの親父が、あげなこつ言いましたよ先生。私共が、みんな、枕元に集まりましたら、お前達は、俺に、何か、言うとくこつはなかかちから、言いよった。じっちゃんじゃろか、あんた、言うとくことはなかじゃろかち、自分の死んで行きよってから、あんたん方が、言うとかじゃこてち言うて。うん、そうたいねち言うて言わっしゃった。ね。私は、それをね、今にして思うとです。いわば、中村さんのお爺さんが言うておった様に、死んで行くときに、何か私に、託けは無いか、言うことはないかと、言うくらいなおかげを頂いとかなければ駄目だと思う。俺は死んでいくが、あれが心配になる、これが心配になる。本当に、あの事はどうだ、頼んどくぞ、どうぞお願いしとくぞといった様な事ではいけんと、私は思う。あれはやっぱり、本音だった、という風に思うのです、ね。そして、あんた、あんたに言うとじゃなくて、あんたが言うとかじゃこてち言うたら、そんなら、椛目ん先生、よろしゅう、それぎりじゃった。私は、それを聞いてからです、ね。昨日、改めて、うちの親先生が言いよりましたち。ね。お前どんが、今、気安う、大坪先生、大坪先生ち言いよるばってん、見よってみれ、今頃もう、そばんでん寄り付かれんごつなるぞと言いよったが、なりるほど、私がです、そばんでん寄り付かれんごと偉くなったという訳じゃないけれども、今日の合楽をです、信じておられたという事です。なるほど、中村さんのお爺ちゃんが言うておった様にです、沢山の人が、合楽の地で助かるようになったという事です。四神様じゃないけれども、攝胤を見ておった下さい。年端もゆかぬ、まぁだ、子供ですけれども、これで、結構、お取次ぎの御用が出来ます。ご神前奉仕が出来ます。攝胤を見ておってください。それこそ、四神様が仰った通りのです、今日の金光教大発展のゴヒレイがあるように、ね。それを信ずると言うことなんだ。しかも、信じて言うておる事がです。何年後、何十年の後に、実現してくるという事なんです。ね。
昨夜、年の最後の大分支部の共励会であるから、一年中の、最近もう、その事のため一つでも、お礼のお祭りせんならんち言うごたる、大変なおかげを頂いております。ですから、一年の事をです、まぁ、とりつかねて、お礼の意味もあって、まぁ、親先生にお礼やらさせて頂きたい。私は、昨日、たまがった。お礼の、この頃からお歳暮ばいただいとったけん、もうそげん、二度も三度もち言うたばってん、いいや、これはまた別ですと言うて、この頃から、私に、十万円のシャツをおかげ頂きたいと言いよりなさいます。そげなもんがあるじゃろかと思って聞いたら、やっぱ、あるそうです。そら、見事なシャツだそうです。だから、それを、どうでもおかげ頂きたいと思うて、あっちこっち、デパートを行ったけれども、福岡で見ておったのが、博多に無かった。だから、文雄先生に、あらほんと、十万円ち言いよったばってん、あら五万円のつですもんの、あら半分の値段のつじゃけれども、あの、と言うて、その、( ? )私も帰って、明けてみましたら、そら、なるほど、見事なもんですけれども、まぁ、五万もするようなシャツを身に付けさせて頂いて、とても、これはただ事ではないと思わせて貰うた。お食事せずに来てくれと言うことでしたから、参りましたら、日田の一番古い、有名な料亭で、河豚の料理をよばれました。もう、それこそ、たらふくと言うほど頂きました。文雄先生が、前に座っておられたので、あんまり、食べませんもん。で、そら、昨日はあの、河豚の肝を食べさせました。それから、あの、河豚のね、白子の白焼きを出しました、塩焼きを。私も、随分、河豚は頂きましたけれども、肝を食べたことは無かった、白焼きを塩焼きなどで頂いたことは初めてでした。なるほど、初めての物は気持ちの悪かろと思います。もうあんた、文雄さん、そげなこつ言うちから、親先生と一緒に、死ぬのなら死ぬとじゃけん、良かじゃんのと言うて、私が、がばがばついでやりましたから、頂きよりましたら、なるほど美味しいものじゃけん、終いごろにはもう、てーげーで止めとかんのと言うぐらい頂きました。そらもう、ばさらか、こんな大きな鉢にあーた、三鉢もあるもん。たった何人かしかで。勿体ない。それにひれ酒で、まぁ、本当に、よばれた訳でございましたけれどもです。どうでしょう。あの河豚の、例えば、お料理がです、ね。私が料理したけんでと言うて、素人が出したなら、とても食べられるもんじゃありませんよ。ね。例えば、肝を食べる時に、博多の、ある一流のふぐ料理屋さんがです。こんなもん食べて大丈夫かと言うたら、ね。あなたの命よりか、私の、この暖簾のほうが大事ですと言うほどに、確信をもっておる料理人が料ったものであるからこそ、安心して頂かれるんです。ね。
例えば、ほんなら、合楽の場合であってもです。親先生が言われること、それがです、完璧という事があろう筈がありませんけれどもです。ここでは、神様がね、神を信じなければおられない。信じさせなければおかないと言う働きが、日々あっておるということなんです。ね。はぁ、神様の働きちゃ、間違いない、一分一厘間違いがないなぁと。
今日、そこの中村さんが、お礼に出てまいりまして、ちょうど、昨日、ここでお届けをしよる時に、繁雄さんが、もう、親先生、たびたびの事ながら、神様の間違いなさに、恐れ入ってしまいますと言うて、お届けに見えたのを、そばで聞いておって、はぁ、神様ちゃ、本当にもう、何時もの事ながら、もう、目の当たりにそれを見たんです。だから、昨日一日、その事を思い、祈り、願い続けさせていただいたら、そのとおりのおかげが、昨日は、頂けたと言うて、今朝からお礼を言うております。目の当たりに、その神の働きを見せていただくのだ、合楽では。ね。聞かせていただくのだ。なるほど、あの話しは、親先生の頭から出て来よる話じゃないなぁと、思わにゃおられんほどしのお話を、いわば、頂いておるのだ。ね。神様が、おかげを下さりたいという事はね、信じてくれよと言うことなんです。それは、磨かなくても、改まらなくても、ね。信心、心甚、心神、と言うから、先ずは、信ずる心なんだ。その信ずる心によって、おかげをキャッチする、おかげを頂くことによって、いよいよ、そのおかげに、神恩報謝の心が生れて、真心にもならせて頂こう、なお、神心にもならせていただこうと、信心、心甚、心神という様に、信心が向上していくと言うことなんです。そういう展開を遂げていかなければならない。信心とは、そうなんです。先ずは、信ずる心なんです。
昨日、私が、参りますと言うことで、他所の教会にお参りをしている方が、近所の二人の方を、御導きして、お話を聞きに来ておった。一人はパーマ屋さん、一人は八百屋さんであった。その八百屋さんが、もう、随分ひどい不眠症、いわゆる、眠られない、夜が眠られない。もう、それこそ、昼は八百屋さんですけれども、頭がぼんやりして、それこそ、買い来るお客さんが、どうかしたつかと言われるくらいに、その、あくる日は、朦朧とした毎日を過ごさせて頂いておる。ね。それで、私が、名前を、すぐ聞かせていただいて、ね。早速、私が、今日お願いをするからね、今晩は、例えば、こういう心掛け、こういうと言うて、私の話を一つ一つ、合点しながら、なるほど、そういう心がけになりゃ、おかげいただけるじゃろうという表情が、ありありと見えておった、昨日。
今日、夕方じゃ、・・・。昼ごろじゃったでしょうかね。上野先生。お昼ごろ、今日、私が下がった後に、電話が架かってきとる。もう、一番口におかげを頂いて、昨日はもう、初めて、熟睡させて頂いたち言うて電話が架かってきた。それは、そして、上野先生から、聞いたんですけど、実は、私はあの、睡眠薬を、どがしこ飲んでも、眠らんほどしの難症でございましたと。どうぞ、神様によろしゅう、親先生によろしゅう、こうしておかげを頂きましたからと言うて、電話が架かってきた。ね。私が、神様を信ずると言うことと、そこで、はぁ、この先生の言われることは、本当だと、こう信じた時です。ね。そういう働きが生れてくる。ね。そういうおかげを、お互いも、身の上にも頂くと同時にです。日々、そういう神様が、信じなければおられないほどしの働きを見せて下さるのにもかかわらず、親先生は、あぁ言いなさるばってんという事ではどうするか。親先生は、あぁ言いなさるけれどもという事は、信ずる、信じないという事ではない。例えば、ね。こういう信心をしなさいよという事なんです。こういう信心をしていかなければ、それは、難しいことでもない。信心を言うのに、先生は、あぁ言いよるばってん、そんな訳にはいかんといった様な事ではです。真の、いわば、神様を信じて疑わんで済むほどしの、おかげと言うものは、育っていかんのです。ね。その範囲の、小さい範囲のおかげを受けましてもです。それが、いわゆる、信心、神心、心甚というふうに繋がっていかないのである。ね。中村さんのお爺ちゃんじゃないですけれども、亡くなるときには、それこそ、あれやらこれやら、頼むばの、頼むばのと言うて行く様な事ではなくてです。ね。それこそ、お前どんが、なんか言うておく事はなかかというくらいな信心を頂きたい。ね。そしてです、自分が確信しておる、今に見よって見れ、椛目の先生は、お前どんが、ね。大坪先生、大坪先生と気安う言いよるけれどもと、現在の今日の、合楽のゴヒレイを、それこそ、見通しであったように、信じておったと言うお爺ちゃんの信心を、改めて、私は、見直させていただいたような気がするのでございます。ね。
そういう、例えば、金光様の、いわば、八十年という式年のお祭りをさせていただくのに、こんな事で良かろうか、こんなことで、私は、今日は、その事を思うたら、心が、淋しくなった。これだったら、何時もの報徳祭と、あんまり変わらんじゃないかと。これは、人事ではない、私の信心に、それこそ、秋永先生じゃないけれども、見ること見ること、自分を見ることという事の信心に、いよいよ、ならなければならないなと、まぁ、感じさせて頂いております。皆さんも、ご承知の通りに、三代金光様と言えば、今日、合楽が、このようにおかげを頂いておるというのは、三代金光様の、御一言があったからでございます。ね。様々な難儀な問題の時に、ね。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからという様な御教えを頂いたのも、この金光様。ね。
私の商売が、いよいよ、不振になった時に、親先生と二人でお参りをさせて貰った時に、今後の大坪の進退、これからのあり方、生き方について、どうさせていただいたなら良かろうかと、親先生がお伺いをして下さった時にです。御道の教師として、おかげを受けられたら結構ですと仰った。その一言があったればこそです。ほんなら、十八年間という、あぁいう金光教神愛会という不遇な時代。まぁ、言うならば、血の涙の出るような思いをする様な事もあった時代です。肩身の狭い思いをする時代のあった、あの時代にです。この金光様の一言があったればこそ、金光教をいただき、守り続けさせていただいたと言うても過言ではないです。というほどしのです、合楽にとりましても、大恩人の金光様の、言うならば、十年の式年のお祭りでございます。お互い、今晩、ほんならこの、前夜祭にお参りし合わせた者だけでもです。そういう、意義のある、深い意味合いにおいてのお祭りである。ただの報徳祭ではない。今日はあの、親先生が祝詞を作っとってやっると仰るもんだから、今日は、朝から参りました。ところが、お具合が悪かったんでしょう、出来ていないです。さぁ、それから、帰って、あただに、祝詞を作成をしなければなりません。だんだん、去年のを引っ張り出して、報徳祭のを見たけど、そんなわけにはいかん。今度は記念祭ですから。それで、金光としこ様、いわゆる、教祖様の奥方であるところの、御霊様の報徳の事も、祝詞の中に謳ってございます。けれども、四神様の記念祭、三代様の記念祭、その二方の記念祭を仕えるのであるから、これは、どうも、可笑しいから、それだけ切って除け、除けと言うて、それだけは入れませんでした。改めて、また、お詫びをさせてもらい。また、お礼を申させて頂こうと、私は思うておりますけれどもです。ね。本当に、明日は、八十年の四神様の式年。十年の三代金光様の式年のお祭りを、いわゆる、記念祭を奉仕させて頂くという心で、おかげを蒙らなければならない。内容が、そうでなからなければならないという事をです、ね。今晩、お参りし合わせた方達だけでも、ただの報徳祭ではない事をね、一つ、肝に命じて、明日のお祭りをお迎えしたいと思うのでございます。皆さんも、どうぞ、よろしゅうお願い致します。